承認の喪失

起きたら8時。もう一限に間に合わない時間だった。新年一発目の大学でやらかしてかなり萎えたものの、木曜の一限は重要な講義なので遅刻でも出席しておきたかった。朝食もそこそこに家を出た。

教室に向かう階段でふと今日は本当に木曜なのか気になった。確認すると水曜日。水曜は四限だけの日だ。こんなことなら家で寝ていたかった。

図書館で時間をつぶすことにした。図書館で場所を確保してすぐは課題の消化に集中していたものの、すぐに睡魔が襲ってきて泥のように眠った。休暇中ずっと6時寝14時起きの生活をしていたのだから眠くなるのは当然だった。むしろ今日8時に起きたのが奇跡なのだ。今日は頑張った、そう言い聞かせて眠り続けた。

四限の時間になっても眠気が覚めず眠り続けた。結局授業には出席せずバイトへ向かった。

冬期講習中は担当でない生徒を振られて辛い。基本的にコミュ障なので初めての生徒だと授業を盛り上げられない。授業に集中しない問題児なら尚更だ。今日授業を振られた小学生は話を聞かないし席にまともに座らないし最悪だった。

攻めあぐねているところに他の講師(以後N)が来てその子に注意をした。助かった一方でみっともないところを見られかなり惨めだった。完全に承認を失った。好きな人から承認を失うのは辛い。
その悔しさもあり授業の後半は試行錯誤したところ、うまいこと授業を成立させることに成功したが、失われた承認は帰ってこない。初めからそうすれば良かった。

授業後掃除をしてロビーに戻るとNが教室に戻りまた掃除を始めた。汚れてましたか、と聞くとまだ教室の隅の席が掃除されずに残っていたとのこと。また承認を失った。完全に仕事ができない人だった。

業務後の雑談をよそにNは帰って行った。もし仮に私に気があるなら残って話に混ざっても良いはずである。つまりはそういうことなのだろうか。この前私を勘違いさせるようなことを言っておいてそれは酷い。童貞を甘く見ないで欲しい。また承認を失った。

承認の意味が崩壊してきているがもう気にしない。ニュアンスが伝われば良い。

彼女

納得ができない。何故あいつに彼女がいて私にはいないのか。今日一日ずっと昨日のことを考えていた。彼は特別容姿が良いわけではないし、積極的に女にアタックするタイプでもなかった。ファッションに気を使う方でもない。だから、率直に言えば、私の方が勝っていると内心では思っていた。彼女を作るにしても私の方が先だろうと傲慢にも決めつけていたのだ。そしてその思い込みは外れた。
しかしそれは必然的な敗北だった。友を見下し、自分の方が優れていると自惚れ、自分の持っていない玩具を他人が持っていることが許せない私の敗北は初めから決まっていたのだ。こんなだから彼女ができない。そういうことなのだ。

成長

久しぶりに高校の友人達と会った。彼らとは長期休暇がある度に日程を調整して集まっている。今回の冬休みも例にもれず、「いつもの場所」で5人で遊ぶことにした。

 

昼過ぎに全員集合して、それからは高校時代と同じようにダーツで馬鹿騒ぎし、飽きたらいつもの流れでハイパーレーンに行き、腕が痛くなるまで球を投げ続けた。ボウリングの待ち時間にも「面白いものしりとり」なる遊び(参加者全員が面白いと思う単語のみでしりとりをする。面白くないと判断された場合はその面白さを訴えるか諦めて別の語を考える)を創作して喉が枯れるほど爆笑した。彼らとは何をしても楽しかった。それほどに気の合う連中だった。

 

夕食は予約した牛角へ向かった。すんなりと席に通され、焼き肉を食らいながら「牛角の塩キャベツは最高」だの「俺の育てた肉を横取りするな」だの心底くだらない話題に花を咲かせた。あのころから何も変わっていない。皆高校の時のままだった。それがただただ嬉しかった。

 

誰かが、もしかしたら私が、こう問いかけた。「お前は恋愛関係はどうなんだ」と。

 

その瞬間、彼らは「大学生」になった。いや元々「大学生」で、私が勝手に高校の頃に戻ったような錯覚を覚えていただけなのかもしれない。とにかくそれからの彼らは私の知る彼らではなかった。「サークルの子にコクられて今交際半年だ」「今付き合ってる子とはあんまりうまくやれてない」「ゼミの女子三人と重い関係になっている」「次の子はこの写真の二人のどちらかかな」ーー。「高校生」の私には到底理解できない世界の話が始まった。できるだけ平静を装っていたが、内心かなり動揺していた。いつの間にか皆私の知らない場所へ旅立ってしまったのだ、なぜ私を置いていくのか、そんな彼らをどうして素直に祝福できないのかーー。とにかく惨めだった。裏切られたような気分だった。いつまでも一緒だと無意識に信じていた友人らの変貌をすぐには受け入れることができなかった。

 

恋愛トークの種も尽きてきた頃。「無邪気に騒いでたあの頃に戻り……」と言いかけて、止めた。彼らは彼らなりに成長したのだ。それを否定することは許されないことに思えた。聞いていた一人が「俺もそう思う」と同意してくれた。けれど、それでも友人たちが成長をやめることはないだろう。彼らは「あの頃」から変わっていくことを受け入れて成長していく。いつまでも昔に固執する私に合わせてくれることは決してない。そしていつか私に見切りをつけて目の前から消えていくのだろう。

 

友人たちに見限られるのだけは嫌だ。だから私も変わる。お前達と同じ場所に立てるようにする。だから待っててくれ。俺を見捨てないでくれ。

日記的なものを書きたくなったので月記

10月のツイートを並べて今月を振り返るの巻

  • とんでもないものに目をつけられたかもしれない

バイト先での事件

女「そういえば○○(私)さんと飲み会でご一緒することが減りましたね」

私「そうですね」

女「○○さんと一度くらいは飲みに行きたいですね、、いや○○さんとなら二回でも三回でも行きたいですね」

私「そうですか」

からの呟き。

勿論この女性が美少女であれば、いや平均的な容姿さえあれば「とんでもないもの」などと表現はしない。つまりはそういうことだ。加えて彼女は論理的な会話ができない。言葉を選ばずに表現するならば、精神、身体、ともにダメ。まさしく「とんでもないもの」。

この件の真の問題は、わずかながら承認を得たような気になったこと、ダメダメな僕でも好いてくれる人がいるのかもしれない、と希望を持ったことだ。自分はなんとレベルの低い人間なのか。深い自己嫌悪に襲われた。

一人の女をボロクソにディスっておいてその態度は何だと突っ込まれそうだが反省など一切する気はない。彼女は私の人生において他人なのだから。

  • 花火の良さに気づいたという訳では決してないんだけど、じっくり眺めてたら火が立体的な意味で放射状(球状)に伸びてることに気付いて、まあ当たり前のことなんだけどおおーってなった

 花火のよさとは何だろうか。

発展性が物事の意味だと考えている私にはただ打ち上がるだけの花火に価値を見出せない。ただの炎色反応。

  • 他者と協調して共同体全体の幸せを願うことは人の生において本質的なことではない(生に本質など存在しない)から、もし仮に殺人にのみ快楽を覚える人がいたとしても彼の幸せの探求を否定できる者は居ない、と考えてたんだけど流石に暴論な気がするしどこで間違えてるんだろう

任意の人は任意の価値観、倫理観を持つことが認められる、という考えを表したもの。

私がポケモンが好きだろうが嫌いだろうが責められる謂れはない。どのような価値観を持っていても私の勝手だ。同様に他者と強調して共同体全体の幸せを願おうが願わなかろうが関係ない。

また任意の倫理観が許容されるならばそこに本質はない。何でもよいのだから。だから人生に本質はない。

こんな具合。今でもこの思考は正しいと信じている。いつかこれは記事にまとめようと思う。

  • 今日はone of the most oshanty otakusとお買い物です

サークルで知り合ったおしゃんてぃな東方オタクに服選びを手伝ってもらったやつ。

服買って時間が余ったからカラオケ行って京都行く約束した。

やつはいいやつだが私としてはいろいろ思うところがある。要は「彼はなぜ私に付き合ってくれるのか」という問題。彼自身には全く問題がないのだが、その彼がなぜ私に声をかけてくれるのか完全に不明。彼なら私よりも出来の良い友人がいくらでもいるだろうに。まあこの話も今度まとめる。

  • 色々考えたけどやっぱり僕にいわゆる「嫁」がいない理由がよく分からないな

嫁がいません。単純にそれだけ。

後日色々考えて出した結論は、「自分の好みに向き合って絞り過ぎた結果、大部分の二次キャラが私を幸せにできそうであることが分かったため」というもの。承認してくれそうなキャラなら何でもよいのだ。だから1番に当たる存在が無数にいることになってしまった。

まあそれでも良いとは思うが。少々寂しいような。

  • 小学校の頃好きだった女の子に告白される夢

そのような夢を見てその後三日間くらい悶えた。

この件の問題は、もう会おうと思っても会えないこと。私が好きだった彼女は知らぬ間に引っ越してしまった。連絡先は勿論ない。多分成人式で再会とかもない。残念。

唯一の頼みの綱は妹。妹は引っ越した後に奴と一度遊んでいる。聞けば連絡先を抑えることができるかもしれない。だが妹は勿論、連絡を取れば向こうからも怪しまれる。「夢に出てきたから連絡した」…ただの変態。

 

十月前半はこれでおわり 後半は元気があれば

 

元気ではないが後半書きます

  • やたら理由とか理論を知ろうとするのはそういうのが好きなのではなくただ楽したいからな気がしてきら

工学より理学、実践より理論が好きだ。そう信じてきた。しかしそうではないのかもしれないというのがこのツイート。

理論の意味、意義とは何か、これについては諸説あるが、事実として理論は様々な現象に応用することができる。そして時に単純作業では大変な手間がかかるものを大いに楽に処理することができる。私はこの点が好きなのかもしれない。楽できるから。

好きとは何だ。

好きとは説明のできない感情だ。だから説明ができるならそれは好きではない。いや好きという言葉を当てても良い(そうしなければ日常会話が成立しない)が、本質的な好きではないのだ。

私はポケモンが好きだ。しかしこれは説明が可能だ。何故なら、「何故ポケモンが好きなのか」という質問に「ポケモン対戦で相手を打ち負かすのが好きだから」と答えることができる。では相手を打ち負かすことが好きなのか?。いやこれも説明可能である。「優越感や承認されたような感覚を得られるから」と。以下同様。この操作を繰り返し私がたどり着いたのは「(自分の認める)他者に認められるのが好き」だ。私はこれに何故と問われても「好きなものは好きだ」としか答えられない。だからこれが私の真の「好き」だ。

これも後日に回そう。

  • バイト先のオタク達と飲み会抜けてカラオケ来た

ただのカラオケではない。男二人女二人。私史上最も女比率の高いカラオケだ。しかも女二人はオタク。最高。

バイト先での一次会が終わり二次会へ行く流れに。次の店に移動するタイミングでちょうど場に居合わせたのがオタク五人。二次会は他の部署の方も来るということで皆行きたく無さげな上に前々からオタクでカラオケ行こうと話していたので、これは行けると判断しカラオケに誘うと皆乗ってくれた。二次会へ向かう流れをこっそりと抜け出して四人でカラ館へ(一人はどっかに消えた)。

記憶は酒のせいで定かではないがまあ楽しかった。そしてあのタイミングでカラオケに誘った私ナイスだ。あと皆歌唱力高過ぎたのでもう少し修業したい。

  • 飯を食いに行ったせいでバイト先の人からもらったパンを食べるタイミングを逃した感ある

人身事故でバイトに来れなくなった女子の仕事を肩代わりした際にお礼としてパンを貰った。それだけ。童貞はそれだけで喜ぶ。しかも私は彼女の事が割と好きなので尚更だ。本人は別の人が代行してると思い込んでいたらしく、パンも私宛に買ったつもりではなかったと申し訳なさげに言っていたのだが、そんなの関係ねえ。「女の子から」「貰った」これだけで十分だ。

自分で書いてて悲しくなってきた。

 

以上。来月やるかは気分次第。

主張と主張者

は○ねくんとかいう基地外ツイッタラーのツイートとその反応が気に入らなかったので、前々から考えていたことも含めてここに残す。

 

彼の主張は要するに「私と有名強者が同じ主張をしたとすれば、その反応は異なることが予想されるが、議論の場においてこの相違は認められないことである」、私なりにもう少し一般化するならば「議論の場において主張は主張者によらず等しく評価されるべきである」ということだ。このツイートが「はが○くんにしては真っ当な意見だ」と評価されていた。このことがとにかく気に入らなかった。は○ねくんがそう騒いでいるだけなら「違うんだよなあ」と一人呟くだけで済んだのになぜかこのツイートへの賛同の声が多かった。何故そこまで神経質になるのか、それは別の機会に回すとして、今回は上の主張を論破する。

 

確かに主張の意味は主張者には依らない。同じ命題を誰が主張したとしてもその真偽は変わらない。誰がピタゴラスの定理を唱えたとしても正しいものは正しい。しかし主張の正しさが良い評価に直結するわけではない。評価されるためにはまず人の目に留まらねばならないからだ。主張の正しさは注目の獲得を保証するものではない。人は主張を発見してからその真偽、意味を知る。評価を得るにはまず人にその主張を聞いてもらわねばらない。

 

ではどうすれば人は主張に耳を貸してくれるだろうか。それを知るにはなぜ人は話を聞くのか考えればよい。簡単である。自分にとって有益な情報を得られると期待するからである。傘を持っていくか判断をするために天気予報に注意するし、業務の役に立てるために上司の話はメモを取るし、パコのチャンスを窺うために異性の雑談を必死になって聞く。何らかの利益を生むために聞くのである。

 

利益を得るために人の話を聞く。それならば有益そうな話は注意して聞くし、そうでないものについては軽視するとなるのが自然である。そして現に人はそう動いている。その名声に価値が裏付けられた有名強者の主張に人が耳を傾け、はがねくんとかいう無名ちんこに耳を貸さないのは当然である。恨むべきは主張を正しく評価しない群衆ではない。主張を聞きたくなるような何かを持たない、または作ろうとせずにうだうだ文句を垂れている無名雑魚なのだ。そもそも有名強者は有名強者とされるだけの何かを積み上げてきた存在だ。何もせずに彼らと議論の場で同じ位置に立とうとするおこがましさを少しは自覚するべきである。

 

文脈が題名からずれていたので最後にまとめておくと、「主張の評価は主張者に依存する。もし自身の主張を正しく評価されたいならばされるなりの何かを積み上げろ」ということである。

当たり前の事しか書いていないが、以前に私も同様の事を考えていたので過去の幼い自分と決別するために記事にする。

 

付かれた 終わり

更新が滞っていることについて

最近このブログを更新することがめっきり減ってしまった。記事を上げるたびにそう書いている気がする。

 

ブログの目的に対してその労力が釣りっていないのだろう。

 

このブログを始めたきっかけは自分の思考を保存するためであった。最近自覚しつつあることであるが、私は世界の仕組みを知りたい。物理学の法則などもそうであるが、より格好のいい言葉を使うならば、世界の真理に至りたい。ここで深く語るのは避けるが、とにかくそういうことである。私は日々考える。真理を見出すべく世界を捉え、一般化し、煮詰めていく。一朝一夕に済む作業では決してない。故に保存しなければならない。何かをつかんだ気がしたのに油断したらいつの間にか取り逃した、そんなことを幾度となく経験してきた。だから、真理に近づくための足掛かりを少しずつ残していかなければならない。

 

しかしその効果をいまいち実感できない。私の思考は私のものである、という観念があるために、それが失われなかったとしても特にありがたみを感じない。故に労力に見合わないと感じるのだろう。

 

おそらくそのメリットを噛みしめて記事作成のモチベーションにするのには限界がある。一度作られた思い込みを変えるのはなかなか難しい。

 

天秤の左腕を重くするのが無理ならば右を軽くする他ない。つまり手間を減らすのだ。ブログに残すとなると長文を書くことになる。しかし記録を残すのに長文が必要かといえば否だ。たとえばツイッターに一言呟くなどだ。最近のでいえば、「主張の価値は主張者によるべきでないと考えていたが、そうでもないかもしれない」ということを考えていたのだが、多分記録としてはこの一文で十分であるように思う。ブログという体裁にこだわることはない。

 

ただ趣味として何か記事としてまとめたいという思いがある。私は創作にあこがれている。音楽、絵、文学何でもよいのだが、何かを作りたい、そんな欲望がある。自分の周りの創作を噛んでる人々が妙に魅力的に見えること、承認欲求を満たしたいことが原因だ。

 

この活動を創作などと言えば他の創作活動にいそしむ方々に失礼かもしれない。しかし何かを完成させたいという思いは確かであり、自分の思考に一番合ったものはおそらくこれしかない。どこかのタイミングで文章の形にできるような仕組みも考えなければならない。

 

付かれた 寝よう

試験終わり

試験が終わった。

二つ選択授業を切り捨てたもののそれ以外は合格しているはずである。今回落としたら留年になる再履修も抑えた。進級の観点から見れば問題なしなはずであり。もしかするとC評価が増えるかもしれない。これだけが懸念である。

今季の反省は授業を切りすぎたことである。切っても問題ない授業を切るのは問題ではない。しかし今回は出席必須なものも面倒になって欠席を繰り返してしまった。授業に真面目に出ている人を捕まえて助けてもらったおかげでなんとかなったものの、この手がいつまで通用するか分かったものではない。来期は講義数を絞って確実に出席するようにしよう。

夏休みである。
人生の夏休みの夏休みである。楽しくないはずがない。
しかしどこか盛り上がれない自分がいる。
大学受験以降(いやもしかするともっと以前から)続く、何をしても楽しくない精神状態が私を縛り続ける。かつての趣味に意味を見出せない。私の心を燃え上がらせるのは最早他者からの承認だけとなってしまった。
己の幸せを追求することだけが人生の意味であると心に決めている私としては承認欲求を肯定するほかないのだが未だに受け入れる勇気がない。しかしどうやって折り合いをつければいいのか見当が付かない。

面倒だからこれで終わり