主張と主張者

は○ねくんとかいう基地外ツイッタラーのツイートとその反応が気に入らなかったので、前々から考えていたことも含めてここに残す。

 

彼の主張は要するに「私と有名強者が同じ主張をしたとすれば、その反応は異なることが予想されるが、議論の場においてこの相違は認められないことである」、私なりにもう少し一般化するならば「議論の場において主張は主張者によらず等しく評価されるべきである」ということだ。このツイートが「はが○くんにしては真っ当な意見だ」と評価されていた。このことがとにかく気に入らなかった。は○ねくんがそう騒いでいるだけなら「違うんだよなあ」と一人呟くだけで済んだのになぜかこのツイートへの賛同の声が多かった。何故そこまで神経質になるのか、それは別の機会に回すとして、今回は上の主張を論破する。

 

確かに主張の意味は主張者には依らない。同じ命題を誰が主張したとしてもその真偽は変わらない。誰がピタゴラスの定理を唱えたとしても正しいものは正しい。しかし主張の正しさが良い評価に直結するわけではない。評価されるためにはまず人の目に留まらねばならないからだ。主張の正しさは注目の獲得を保証するものではない。人は主張を発見してからその真偽、意味を知る。評価を得るにはまず人にその主張を聞いてもらわねばらない。

 

ではどうすれば人は主張に耳を貸してくれるだろうか。それを知るにはなぜ人は話を聞くのか考えればよい。簡単である。自分にとって有益な情報を得られると期待するからである。傘を持っていくか判断をするために天気予報に注意するし、業務の役に立てるために上司の話はメモを取るし、パコのチャンスを窺うために異性の雑談を必死になって聞く。何らかの利益を生むために聞くのである。

 

利益を得るために人の話を聞く。それならば有益そうな話は注意して聞くし、そうでないものについては軽視するとなるのが自然である。そして現に人はそう動いている。その名声に価値が裏付けられた有名強者の主張に人が耳を傾け、はがねくんとかいう無名ちんこに耳を貸さないのは当然である。恨むべきは主張を正しく評価しない群衆ではない。主張を聞きたくなるような何かを持たない、または作ろうとせずにうだうだ文句を垂れている無名雑魚なのだ。そもそも有名強者は有名強者とされるだけの何かを積み上げてきた存在だ。何もせずに彼らと議論の場で同じ位置に立とうとするおこがましさを少しは自覚するべきである。

 

文脈が題名からずれていたので最後にまとめておくと、「主張の評価は主張者に依存する。もし自身の主張を正しく評価されたいならばされるなりの何かを積み上げろ」ということである。

当たり前の事しか書いていないが、以前に私も同様の事を考えていたので過去の幼い自分と決別するために記事にする。

 

付かれた 終わり