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更新が滞っていることについて

最近このブログを更新することがめっきり減ってしまった。記事を上げるたびにそう書いている気がする。

 

ブログの目的に対してその労力が釣りっていないのだろう。

 

このブログを始めたきっかけは自分の思考を保存するためであった。最近自覚しつつあることであるが、私は世界の仕組みを知りたい。物理学の法則などもそうであるが、より格好のいい言葉を使うならば、世界の真理に至りたい。ここで深く語るのは避けるが、とにかくそういうことである。私は日々考える。真理を見出すべく世界を捉え、一般化し、煮詰めていく。一朝一夕に済む作業では決してない。故に保存しなければならない。何かをつかんだ気がしたのに油断したらいつの間にか取り逃した、そんなことを幾度となく経験してきた。だから、真理に近づくための足掛かりを少しずつ残していかなければならない。

 

しかしその効果をいまいち実感できない。私の思考は私のものである、という観念があるために、それが失われなかったとしても特にありがたみを感じない。故に労力に見合わないと感じるのだろう。

 

おそらくそのメリットを噛みしめて記事作成のモチベーションにするのには限界がある。一度作られた思い込みを変えるのはなかなか難しい。

 

天秤の左腕を重くするのが無理ならば右を軽くする他ない。つまり手間を減らすのだ。ブログに残すとなると長文を書くことになる。しかし記録を残すのに長文が必要かといえば否だ。たとえばツイッターに一言呟くなどだ。最近のでいえば、「主張の価値は主張者によるべきでないと考えていたが、そうでもないかもしれない」ということを考えていたのだが、多分記録としてはこの一文で十分であるように思う。ブログという体裁にこだわることはない。

 

ただ趣味として何か記事としてまとめたいという思いがある。私は創作にあこがれている。音楽、絵、文学何でもよいのだが、何かを作りたい、そんな欲望がある。自分の周りの創作を噛んでる人々が妙に魅力的に見えること、承認欲求を満たしたいことが原因だ。

 

この活動を創作などと言えば他の創作活動にいそしむ方々に失礼かもしれない。しかし何かを完成させたいという思いは確かであり、自分の思考に一番合ったものはおそらくこれしかない。どこかのタイミングで文章の形にできるような仕組みも考えなければならない。

 

付かれた 寝よう